菱田春草生誕150周年記念
各150部限定
日本美術院100余年の歴史のなかで、その初期に活躍した日本画家として、横山大観や下村観山らと共に逸することのできないのは菱田春草である。そして春草といえば、1909(明治42)年の「落葉」や、その翌年の作である「黒き猫」を代表作とみるのが通説である。いずれも、今日では重要文化財に指定されている名作である。とりわけ「落葉」は六曲一双の大作であり、まさしく春草最晩年の優作の一点である。
1874(明治7)年長野県に生まれ、本名は三男治。89年上京して結城正明に師事、翌年東京美術学校入学。95年の卒業制作の「寡婦と孤児」は最高点を取る。98年大観らと共に、岡倉天心の組織した日本美術院設立に参加。8年後の1906年苦難の五浦時代を送るも、院展の再興(1914年)見ずして、1911年に37歳の若さで他界した。だがその短い生涯を終えた春草は、近代日本美術史のなかに歴とした業績を残している。
この「落葉」は、1909年の第3回文展に出品して2等賞を受賞した名作である。六曲一双の大画面は、春草が最晩年に住んだ代々木付近の雑木林に想を得た、画家の心象風景を作品化したものである。左右両隻にそれぞれ10本の樹が描かれ、右隻のクヌギの小木に止まる小鳥や、左隻の落葉の上に遊ぶ2羽のジョウビタキが静寂な雰囲気に活気を与え、知的で清澄な画面は無限の幻想性と詩情を漂わせた、比類なき逸品である。
春草は、一時期人物画に没骨描法の朦朧体風を試みたが、これが悪評であったために、天心の指示で写実を制作の基本に据え、改めて日本画の伝統を見直そうとした。一方では、大観と共にインドをはじめ欧米諸国を歴訪して、日本画の世界的意義を認識し、自らも日本人の描く絵画に日本画と洋画の区別はないと主張して、幅広い視野に立っての独自の日本画をめざした。しかしながら、持病の蛋白性網膜炎と慢性肝臓炎の悪化で失明し、1カ月後に急逝したのは惜しまれる。
村木 明(美術評論家)
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