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日本の風景をこよなく愛した玉堂が、叙情豊かに描いた高原の秋
玉堂は画家であると同時に、生まれついての詩人であった。俳句、和歌、連歌などを良くしたが、短句に万感をこめる俳句に最も優れていた。幼い頃、父親と一緒に河原でお弁当を食べたり、山登りして遠景を眺めやったりしたのが、何よりの楽しみだったという。
この作品が描かれた1941年といえば、例の松田改組(1935年、帝展と院展の合体を中心に文部省が東京美術学校長和田英作・院展を率いる横山大観等に図って断行した。同時に帝展に増えすぎた無鑑査を三分の一に減らしたが、彼らの不出品運動で元の木阿弥となった)後のこと、その改組運動に邁進していた玉堂にすれば腹の煮え立つ思いであった。
「羽織袴かなぐり捨ててゆたかかな」
その時の句である。そして東京美術学校の教授も、帝国美術院会員もやめてしまった。温厚篤実の典型のような玉堂にしては、闘争的にも思えるが、これは清潔さの裏返しで、「私の宗派は大自然教」「私の個性は自然好き」という彼の信条から生まれていよう。
そうして見ればこの作品も、自然に浸って心眼で捉えた風景といえよう。視覚だけでなく、自然に身を置いて体感した暖かい空間がそこにある。
技法的には、墨と色彩、鋭い狩野派的線と四条派的な柔らかい線の総合で、雑木林の向こうからふと現れた馬子が玉堂その人にも思える。そして構図は斜に主題を寄せて、宋の馬遠の「辺角の景」に則っている。若い頃学んだ制作の姿勢を見事に生かしているといえよう。宋画は岡倉天心以来の日本画の目標であった。そしてそこには視覚では捉えられない、さわやかな空気までが流れている。他の追随を許さぬ世界といえよう。
美術評論家 細野正信
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