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息づくジャポニスム、一瞬のきらめき。
「睡蓮の池」の連作
1900年の末、デュラン=リュエル画廊で12点の「水の庭」の連作が展示されました。これは1899年と1900年の夏に描かれたモネの水の庭園を描いた最初の連作で、モネが最初に池を造園した際の形を写し取ったものです。好評を博したこの連作はいずれも睡蓮の池に架かる橋を描いたもので、全体として統一感がありつつも、作品ごとの個性が際立つ作品群です。あふれる光と自然の息吹に満ち、深い緑が印象的なメトロポリタン美術館所蔵の本作品は、この連作では珍しい縦型の構図により、睡蓮とその池の反射の描写がより際立つ作品となっています。空は意識的に画面の外に追い出され、視線を植物と水面に集中させるこれらの作品は、きわめて近い距離から睡蓮に覆われた水面のみを描いた、のちのモネの集大成ともいえる睡蓮連作の前触れとなる作品群といえます。
――私が求めているもの、つまりは「瞬間性」、とりわけ周囲を包む空気と、いたるところに広がる同じ光を表現するには、もっと努力をしなければならないことがわかってきます。私は今までになく一度でうまくいくようなものが厭になっています。私の努力は一言でいえば私が感じているものを描き出すことなのです。(1890年、ジェフロワへの言葉)
日本の芸術への敬意、浮世絵のエッセンス
「ジャポニスム」という言葉が生み出され日本の芸術が流行した19世紀末、モネも美術品を通して日本の文化を学び、日本の芸術を高く評価した一人でした。
モネは1860年代から日本の版画の収集を始め、300点近くを所蔵していました。連作という構想は、葛飾北斎の富嶽三十六景のような風景シリーズからきているともいわれ、実際にモネはそのシリーズのうち9枚を所有していました。また、「睡蓮の池」の構図は歌川広重の「名所江戸百景 亀戸天神境内」と非常によく似ていることが指摘されています。
――日本のアーティストたちが、これまでとは異なる絵の構成に気づかせてくれたことは疑いがありません。(トレヴィーゾ公への言葉)
モネの「水の庭」
1890年にノルマンディー地方ジヴェルニーの土地を購入したモネは、「花の庭」と呼ばれる四季の花咲く庭を造園し、1893年にその隣の土地も買い足すと、「水の庭」の造成に着手します。モネは6人の庭師を雇い入れ、この池にわざわざ日本から輸入した異国の睡蓮を根付かせ、日本の木版画のなかに見つけた太鼓橋に似せて小さな太鼓橋を作りました。1901年からはさらに池を拡張し、睡蓮や大きな柳、ポプラの木に加え、日本のリンゴや桜を植えていきます。
地元の人たちから「日本庭園」と呼ばれたこの水の庭は、30年以上にわたりモネのインスピレーションの源であり続け、モネはここに静寂の王国、瞑想の場を見出していくのです。
――風景は一日では体の中に響いてはきません。そして私はある時突然、いかに自分の庭が魅力的であるかに気付き、パレットを取りました。それ以来、私にはその他のテーマは見えなくなりました。(1924年、マーク・エルダーへの言葉)
作品解説
19世紀後半の印象派を代表する画家として、クロード・モネの名は世界的に鳴り響いていると言ってよい。パリに生まれ、英仏海峡に面した北フランスの港町、ル・アーヴルで少年期を過ごしたモネは、このノルマンディーの海岸地方特有の、ほのかに湿気を含んだ空気と明るい光りに囲まれ、海と空と雲を見つめて育った。セーヌ河の流域の水辺やパリの街頭風景、海辺の景色がモネの最も好んだモティーフだったが、とりわけ、1883年以来はセーヌ河下流のジヴェルニーの村に移り住むと、1890年には土地と建物を購入し、自邸の広大な庭の花々や池を主題に描き続けた。
このニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵の作品は、ジヴェルニーの自邸でモネが描いた一連の作品のひとつで、日本風の太鼓橋がほぼ正面から、左右対称に描かれている。
緑を主調とした画面は静寂に満ち、森閑とした木々の影が光を浴びた池の水面に映える。花をつけて浮かぶ睡蓮は、視る者の目線を画面奥にまで導く。しかし、かすかに夏の陽に光るしだれ柳の鮮やかな緑は、画面中央の深緑の人工物の曲線によって大胆に遮られる。エキゾティックなデザインの太鼓橋と、神秘的とも言える水と植物が陽光の中に拮抗するこの1899年の「睡蓮の池」は、これ以後、最晩年の睡蓮の幽玄な大構図に向かって次第に制作を加速させていく画家の、実験的な変奏曲のひとつであったと言えるだろう。(解説から抜粋)